聖書ってどんな本ですか (8)聖書の読み方3

 

 私は、成人式の前日に洗礼を受け、その晩、人 生、初めて40度の高熱を出して神に見捨てられ たと思いました。

 何故なら洗礼を受ける前に牧師から「未だかつ て歴史上、洗礼を受けて風邪を引いた人など誰も いない」と聞かされていたからです。私は、世界で 初の人間になってしまったと思い込み、もう教会 には行けないと思いました。

 そして、こうなったのは、親から洗礼を受けたら勘 当だと言われて内緒で受けたからで神は怒り私 を見捨てたのだと本気で思いました。

 でも、この事をある方に相談するとその人は 「真冬に長時間、水に漬かっていたら風邪を引い てもおかしくないのでわ」と言われハッとしまし た。私は、全く、論理的思考が出来なくなっていた のです。

 何故、聖書の読み方とこの話が関連するかと言 うと聖書がいくら神様の言葉だからと言っても書 かれた内容を神秘的に解釈したり聖書の数字を 暗号の様に受け止めたり、通常の常識とは全く 違った比喩的解釈をしてはいけないと言いたい のです。昔、エホバの証人の学びを長くしていま した。その時は、内容や数字を比喩的に解釈する オンパレードでした。

 聖書を読むときには、まずその箇所の「自然 な」意味(常識的にその箇所を読んだときに理解 できる事)を考えて読むべきだと思います。そこ から勝手に意味を読み込むとおかしなことになり ます。

 次に大事な事は、前後関係(文脈)を無視して 読まないことです。その箇所だけを抜き出して解 釈してしまうと時には、大変な事になります。昔、 ある教会の婦人が「この聖書の箇所を読み、全財 産を夫に内緒で教会に献金した」と自慢げに言われ、何千万ものお金を勝手に献金し てしまって離婚にならないのかと心配になりました。 それ以上にその聖書箇所の前後をちゃんと読むと決 して全財産を捧げろとは言っていないので何故、誰 もこの方を止めなかったのかと悲しくなりました。前 後を無視して1つの聖書箇所だけを抜き出して自分 に適用するとこんなおかしなことになります。

 もう一つ大事な事は、全体の教えに照らして聖書 を解釈する必要性です。

 昔、私の叔母は聖書の言葉が大好きでした。トイレ にも玄関にも聖書の言葉が書かれたものが貼って ありました。でも、叔母はクリスチャンでもないし教会 にも行っていませんでした。ただ、聖書の言葉が人 生訓のように叔母の心に響いたようでした。 どうしても人間は自分の好きな聖書箇所や自分 が納得できる教えが書かれた箇所を常に読んでい きやすいです。

 でも、その箇所は独立したものではなく、聖書が 書かれている目的をちゃんと理解して読む時、もっ とその意味がよくわかります。 聖書が書かれた目的とは何か?簡単に言ってしま うと「イエスが神の子キリストであることをあなたが たが信じるためであり、また信じてイエスの名によっ ていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)と書か れています。

 イエスキリストは、誰で何をされたのか、それを ちゃんと理解して読む時、聖書が、あなたを真理に導 きます。

 いつか聖書の言葉がまさに自分に向かって語られ ていると気付かれる日が来て聖書を読むのが楽しく なる・・・そんな時がぜひ、あなたにも来て欲しいと 願っています。

 

 

 

聖書ってどんな本ですか (7)

 多くのクリスチャンは、毎日、少しでも聖書 を読み、祈る生活をしたいと願っていますが、 現実は、朝は忙しく、聖書を読むのも祈るのも 後回しと言う生活を送ってしまいます。じゃ、 夜にゆっくり聖書を読むことが出来るかと言う と夜も寝るまでバタバタしていて気が付くとベッ ドの中にいると言う事になります。かく言う私 も朝方に熟睡するタイプなので早起きは苦手です ちゃんとデイボーション(聖書を読み祈る時間)が 出来る日といい加減な日と少しはましな日と言 う組み合わせで暮らしている気がします。言い 訳みたいですが、その人の生活リズムやその人の 気質、状況などによって聖書を読み、祈る時間 は違っても良いと思います。ただ、可能なら一 日、一回は、聖書を短くても読み、短くても祈 る習慣が出来ると本当は良いと思います。 では、本題の聖書の読み方です。かなり自己 流の解説になるかもしれませんが、

①わからない所があってもまず取り合えず区切 りの良い所まで読む。以前、疑問の答えを求め て探求するのが楽し過ぎて気が付くとお昼に なっていました。確かに分からないままにして おくと精神衛生上、良くないので牧師先生に分 かり易い解説の本などを紹介してもらいましょ う。但し解説は読むけど聖書は読まないと言っ た事にならないようにした方が良いです。

②日本人の自分には、意味不明?カタカナの氏名ば かりが続く・・そんな箇所の時には、目をスラ イドさせて取り合えず見るだけにしましょう。 教科書ではないので全部、しっかり読んで理解 すると言う必要はありません。でも、もしかす るといつかそんな箇所から何かを教えられると 言う事が起こるかもしれません。

③自分に必要な事や教えられるべき事があるなら 教えて欲しいと言う思いで読む。

聖書を経典として丸暗記する必要は全くありませ ん。何故なら文字に意味があるのではなく、書か れている内容が大事だからです。以前、読んだ時 には何も感じないし教えられる事がないと思った 箇所がある時、自分にぴったりな言葉や内容だと 感じる時があります。まるで私に向かって言われ ていると思える時があります。そこが聖書の面白 さであり単なる本ではないと実感する瞬間です。

④計画的に読む。

 行き当たりばったりその日の気分で色んな聖書 箇所をつまみ食いすると全体像が何も見えなくな ります。だからある程度、自分なりの計画性を もって読んだ方が良いです。

⑤気になった聖句や自分がその時、感じたことな どをノートに記すのも有益です。私は分厚い大学 ノートに日付と特に心に残った聖書のみことばや その時の思いなどを書き留めています。

⑥繰り返し読む

読もうと思えば、あの厚さですから遅い人でも2 ~3日あれば読めると思います。でも、一生、お 付き合いする本ですから慌てて読む必要はないと 思います。勿論、まだ1回も聖書全体を読んだこ とがなくてもそれは問題ではありません。聖書が 分からなければ、クリスチャンになれないなら私 も信仰を持てませんでした。ただ、簡単に諦めて しまわないでぜひ、聖書を読んで下さい。もし、 今は、聖書を読む気力も意欲もわかないなら日曜 の礼拝で聖書に触れましょう。人に会いたくなけ れば、ラジオやネットで聖書の言葉が語られてい ます。

どんな方法でも良いので神様の言葉である聖書を 身近な物として生活して欲しいと思います。

 

 

聖書ってどんな本ですか (6)

 

 聖書は、はっきり言って簡単に読めるものではありません。 正直な所、信仰をもったので毎日、読んでいますが、もし、クリスチャンにならなかったら1度、読めば再読したいと思うような本ではないと思い ます。

 何故なら内容が日本人には馴染のないユダヤ人の習慣だらけでこれが自分とどう関係するのかさっぱり理解出来ないからです。 箴言や伝道者の書のような教訓集みたいな箇所もあるので読んで損をしたという人はいない と思いますしイエス様のことばに感動を覚える 人もたくさんいると思います。 でも、聖書全体を何回も読みたいと思う人はあまりいないと思います。

 では、何故、私は、信仰をもってから52年 間、ずっと聖書を読み続けているのか」・・・ 簡単に言えば、単なる本ではないからです。 私の人生そのもの、生き方までも聖書は変えてくれました。

 私の人生の羅針盤であり、判断基準の物差しでもあります。もし、聖書を知らなかったら私の価値基準は全く、違っていたと思います。 多分、お金をがっぽり稼ぎ、そのお金を倒産して苦しんでいる人を債権者から守る弁護士としての活動に注ぎ込み、シングルマザー(結婚 は面倒なので独身のまま母になる事を考え、忙しい生活を維持するため時短料理の研究を高校生の時から研究していました。)として頑張り、裁判で決して負けない女を目指して生きていたかもしれません。 でも、聖書のみことばを知ったことで人の幸せ は そんな見た目の勝利者になることではないと知りました。

 何故なら、聖書を通して自分は何のために生きる のか、そもそも自分が存在している理由が何なの かがわかるからです。しかも生きている時だけで なく死んだ後の事まで聖書は教えてくれます。 ただ、単に人間的な良い教えが聖書に書かれている訳では、ありません。 では、聖書を読む時に一番、大切な事は、何なの でしょう。聖書は、単なる人間的な良い生き方や 教えを説いている訳ではないと書かれています。

 「聖書は、あなたに知恵を与えて、キリスト・ イエスに対する信仰による救いを受けさせること ができます。聖書は、すべて神の霊感によるもの で、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」Ⅱテモテ3章15・16

 聖書を通して私たちは、神の御子であるイエス が私たちを罪から救うために来られた救い主であ る事を知る事が出来ます。そして信じる事によっ て私たちは罪から(永遠の滅びから)救われま す。

 実際、聖書を書いたのは、人間ですが、その内容は神からきたものです。だから本当の著者は神様です。例えば、社長秘書が社長の言った事を書いたとしてもそれは秘書の言葉ではありません。 同じように人間を用いて神様は、ご自分の考えや思いを伝えました。だから人間が書いた物であっても聖書は、神の言葉です。

 聖書を読む時、自分に分るかどうかではなく、 神のことばとして読むかが一番、大事な事です。 神のことばだからこそ、聖書を読む人間に正しく 生きる道を示し間違いに気付かせてくれるので す。だから私たちは、毎日、聖書を読みながら神様が自分に語り掛けてくれる事を発見しながら生きていけるのです。

 

 

 

 

聖書ってどんな本ですか (5)「内容による区分」新約聖書

 

 新約聖書は27の書簡が集まっていますが、 4つの福音書を除くと多くは、パウロに関わるものです。ただ、へブル人への手紙は作者不詳 なので今は、パウロの書簡としては扱われなくなっています。

 ヤコブ書を書いたヤコブは、イエスの弟でイエスの死後、弟子になりエルサレム教会の中心メンバーになりました。ヤコブは、救われるためには、良い行いが必要ではなくても「信じた 後も行いは関係がない」と間違って捉える人たちを正そうとしました。

 ペテロの手紙は迫害や困難に直面したクリス チャンを励ますために書かれました。 12使徒の一人で特に主に愛された弟子のヨハネは、晩年、多くの異端(キリストの教えとは 違う教え)が多くの教会内に入り込んでいる現実に直面し異端に対処する目的で3通の手紙を 書きました。

 ユダの手紙はペテロ第2と似ていて放縦な生活をしている異端に惑わされないように生きることを勧めています。 ヨハネの黙示録は、終末の問題を扱っています。直接的には、迫害の中を生きる教会に励ましを与えるために書かれましたが同時に終末について預言的に記したものでもあります。彼が見た幻は、終末の時に完全にサタン(悪魔)が 敗北し新しい天地と新しいエルサレムが出現し キリストが再び到来することを待ち望む言葉 (しかりわたしはすぐに来る。アーメン。主イ エスよ、来て下さい)で結ばれています。

 聖書を一言で纏めるなら「この世界の創造か らこの世界の終末まで」を記したものです。 聖書は、何千年にも渡ってしかも場所も仕事も 全く違う大勢の人たちが1つのテーマに沿って記した実に不思議な書物です。 そのテーマとは、神によって良き者としてこの 世に誕生した筈の人間が神を無視し神に従う人生 を拒否した事によって罪がこの世界を支配するようになりました。しかし、人間を愛された神様は やがて救い主(人々を罪から救い、神との関係をもとの状態に戻す)をこの世界に送られる事を約 束され、それが2千年前、キリストの誕生で実現しました。

 キリストは神がどのようなお方なのかを具体的 に私たちに示し、ご自分が罪の身代わりとして十字架に架かり、死んで、3日目に甦られ、再び、 この世界に戻って来られることを約束されて神のもとに戻られました。神から遣わされる救い主の 「約束」と「成就」が聖書のテーマです。 旧約聖書は、人類の祖であるアダムの子孫の歴 史でもありますが、アダムの息子カインは弟アベルを殺しました。人は歴史の最初から罪の中を歩 み、神を信じる者と信じず己の欲のままに生きる人が交差する歴史でもあります。この壮大なテー マを神によってご自分の民とされたイスラエル人 (別名:ユダヤ人・へブル人)の歩み(歴史)を 通して記しています。

 聖書は、どんなに神に選ばれた民であっても神 に従わなければ、約束の地から追い出される事を 教えていますが、イスラエル人は、今もなお、民 族の祖であるアブラハムに与えられた選民意識 (神によって選ばれた民族である)と神によって与えられた約束の地であるパレスチナを必守する事に存在意義を掛けて生きています。

 聖書の世界は大昔の神話などではありません。 書かれた事は今もなお、継続中です。 次回からは、聖書をどのように読んでいったら 良いのかをお伝えします。

 

 

 

 

聖書ってどんな本ですか (4)「内容による区分」新約聖書
 

 新約聖書には27個の書物があります。文学 的ジャンルで区分するなら歴史書(4つの福音 書と使徒の働きの5つ)、書簡(宛先がはっきり分かる13通のパウロによる手紙とパウロ以 外の人が書いた8つの手紙、合わせて21通) と黙示文学(その書かれた時に実際に起きた出 来事ではなく未来の事や比喩的な事や見た幻などを書いている)としての黙示録です。

 ただ、通常はもう少し細かく分類してイエス 様の生涯を4つの視点で書いた福音書、福音が世界へと広がっていく様子が書かれた使徒の働 き、パウロ書簡、へブル人への手紙とその他の書簡、ヨハネの黙示録の5つに分れます。

 前回も書きましたがある人物の自伝を記すなら通常は1つに纏めます。しかし聖書は4つの視点でイエスキリストの生涯を伝えます。

 マタイの福音書は旧約聖書で記されたメシヤ (救い主)がイエス・キリストである事を示そうとしています。

 マルコの福音書は、出来事を報告する事に主眼が置かれていてイエスの教えはあまり出てきません。又、マタイは、イエスの直接の弟子で12使徒の一人ですが、マルコは使徒ペテロの助手としてペテロが語る事を記録し福音書に纏め ました。

 ルカの福音書は、聖書を書いた人物は、すべて ユダヤ人ですが、多分、ルカだけはユダヤ人ではありません。医者としての視点で女性や貧しい人に特に関心を寄せ、読む相手も異邦人(ユダヤ人以外)を意識して書いています。

 ヨハネの福音書は他の福音書とは違っていてイエスの誕生の様子などは書かれていません。 他の福音書では書かれていない奇跡や内容が書かれています。

 

 使徒の働きは、ルカが書き、福音書の続編として 復活したイエスが昇天した後の出来事が書かれています。イエスが約束された聖霊に満たされた弟子たちにより教会が誕生し迫害されて世界中に散っていきながら福音が広がっていく様子が書かれています。そして迫害者のサウロ(パウロ)が復活したイエスに会い、宣教者へと変わり彼の働きを通してユダヤからギリシャ、ローマへと広 がっていく約30年の教会の歩みの記録です。

 パウロの書簡:各教会が抱えた問題を解決するために9通の教会宛ての手紙を書きました。 又、個人宛の手書きが4通でその内、パウロの弟子に書いた手紙が3通とある友人にお願いことをした手紙が1通です。 パウロの手紙は書かれた順ではなく最初に3つの 長い手紙(ローマ人への手紙、コリント人への手 紙1,2・ガラテヤ書)が続きます。 それに続いてパウロが獄中で書いたと思われる エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙が続きます。 キリストが再び、来られる(再臨)事について間 違った考えを持ち、生活してしる人々をいさめる ためにテサロニケ1、2が書かれました。

 牧会書簡と呼ばれているのは、教会を指導する働きをしていた弟子にどのように教会を牧会していくかを具体的に指導した手紙がテモテ1,2・テ トスへの手紙です。

 へブル人への手紙と公同書簡(ヤコブの手紙、ペ テロの手紙1,2・ヨハネの手紙1・2・3とユ ダの手紙)。これらの手紙は宛先が書かれていなかったり明確ではないため公同書簡と呼ばれます。                     (続きは次回)

 

聖書ってどんな本ですか (3)「内容による区分」
 

 前回の続き②新約聖書に書かれている内容旧約聖書で度々、語られてきた救い主(人々を 救う者)がついにダビデの子孫であるイエス(神 の御子)の登場によって実現します。イエスの到来 によって永遠に滅びる事のない神の国が始まり ました。イエスは、神に背き神を無視して生きてきた私たち人間に罪の赦しをもたらし世界を祝福す るために十字架に架かり、死んで復活されました。 この様にしてイエスの登場と共に新しい契約の時代がスタートしました。新約聖書には、イエスの事を信じた人々が福音(神からの良きおとずれ)を世界中に伝えていく様子も書かれています。

 

今回以降は、もう少し聖書に書かれている事の詳細を紹介したいと思います。何故なら多分、聖 書に子供の時から親しんでいる者でも聖書に書かれているお話の幾つかは知っていても全体像は、中々、理解出来ていないと思います。 又、聖書については、良く分からないと言う人でもノアの洪水のお話やモーセによるエジプト脱出<海が 割れた>やクリスマスの出来事は、知っているかと思 いますが、何故、その事が聖書に書かれているのかは、知らない人が殆どだと思います。 以前、四国の鳴門市にある大塚美術館に妹と姪が行ってきた後の感想を聞いて笑ってしまいまし た。二人は、イエスの母マリヤがイエスの誕生を天使から 告げられた「受胎告知」と言う聖書に書かれている重要な場面を描いた絵の数々が美術館に入場して最初の方にいっぱい展示されている事に腹 を立て「同一の内容なら一枚だけを選んで展示して欲しい。どこまで行っても同じ絵を見せられる苦 痛に配慮して欲しい。いい迷惑だ。」と二人は、言いました。教養のなさが暴露されている様な話で すが、考えて見ると同じ出来事なら1つに纏めれば良いのに旧約聖書も同じ内容の事が別々の書として出てきます。叉、新約聖書もイエスの生涯が4つの福音書に書かれています。実に人間の理解では不思 議に思える本が聖書です。 今回は、聖書を内容的に区分したいと思います。

 

Ⅱ)内容の区分

歴史:

○アダムからモーセの時代まで:創世記・出エジプト 記・レビ記・民数記・申命記

○約束の地への定住と王が誕生する前の時代: ヨシュア記、士師記、ルツ記

○王の誕生と国の崩壊時代:サムエル記1と2・列王記 1と2・歴代誌1と2

○捕囚から戻り国を再建する時代:エズラ記・ネヘミ ヤ記・エステル記

詩歌:

○ヨブ記:試練に会ったヨブが神の介入によって苦し みから解放される様子が書かれている。

○ダビデ王やソロモンに由来するもの:詩篇・箴言・ 伝道者の書・雅歌

預言

1)大預言書(書かれている文量が多い。)

〇神に従わないと捕囚される事と後に解放される 事を預言する。イザヤ書・エレミヤ書、哀歌、

〇捕囚の地での預言:エゼキエル書・ダニエル書

2)小預言書:12個の預言書を纏めてもイザヤ書より 文量は少ない。

〇捕囚を迎える時代:ホセア、ヨエル、アモス、オバデ ヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク・ゼパニヤ 北への預言者:ホセア・アモス・ヨナ・南への預言者: ヨエル・ハバクク・両方:ミカ・外国への預言者:オバ デヤ(対エドム)・ナホム(対ニネベ)

〇捕囚後:ハガイ・ゼカリヤ・マラキ

 

*次回は新約聖書の内容による区分です。

 

 

聖書ってどんな本ですか (2)「神との契約」

 

  前回、聖書は分類的には「本」であっても普通 の「本」ではないと書きました。 どこが違うかと言えば、その内容が何千年にも 渡って時代も国も背景も全く違う人たちによって書き続けれらたのにそのテーマが統一されてい る点です。更に聖書の中にはたくさんの予言が書かれていますが、それが最期の日を除き、すべて実現しています。 こんな本は世界中、探してもありません。

 もっと凄い事は、分類上は「本」であるこの聖書によって世界が変わり、人の一生が変わると言う点です。聖典なのだからそんな事不思議ではないと思われるかもしれません。でも「聖典だから 道徳的に良い事ばかりが書かれているのだろう」 と思って読むと寧ろ、人間の弱さや醜さ、欲望の 姿・・・まさに人間の罪深さの羅列なのです。

 大学時代、学園際で聖書研究会のチラシを配っていると男子学生が近寄ってきて必ず言う言葉 がありました。「俺は聖書を読んだことがある。あれはまさに性書だよな・・・」とニヤニヤしながら言 うのです。私は、必ず「あなたは凄い!聖書をちゃんと読んだのですね。あそこには人間の罪の 姿がまさにリアルに書かれ、強姦、近親相姦、不倫 兄が妹を犯す略奪婚・・・まあよくここまで人間の 欲望の姿がリアルかつ正確に表現されているなあ」と私でも驚きます。でも、あなたは、聖書にそこまで人間の悲惨さが書かれている真の目的をまだ知らない。それをお伝えするので私と部室まで来ませんか?詳しくお伝えしますから」と言うとみんな苦笑いをしながら去っていきました。

 私は、男子学生を撃退するためにこんな事を 言った訳ではありません。聖書を1つの書として捉 えずバラバラに切り離された内容だけを読んでいると聖書が本当は、何を私たちに伝えようとしているのかさっぱりわからない難解だけの本だから です。私は、今回、少しでも一見、難解に見える聖書 を分かり易く解説したいなあと思い、このシリーズを始めました。では、まず、最初に聖書の内容を大きく 分類してみましょう。

 

 Ⅰ)旧約聖書と新約聖書

「約」とは、「契約」の意味なので簡単に言えば、「古 い契約」が旧約聖書で「新しい契約」が新約聖書だ と言えます。(参:ユダヤ人にとっての聖書は、旧約聖 書の事を指します。)

 旧約聖書に書かれている事を大雑把に纏めると以下の様になります。 神がこの世界を創造され、最初の人間アダムとエバ を神と共に生きるエデンの園に置かれましたが、二 人は蛇(サタン)に惑わされ神が唯一してはならない と言われた知恵の木の実を取って食べ、神に背く存在になりエデンの園から追放されました。 でも神は人を見捨てず今から4千年ほど前、アブラ ハムと言う人物を選んで「大いなる国民にしよう」 と約束をされました。これはアブラハムの一族の繁 栄と言う事ではなく世界中の人がアブラハムの子 孫を通して祝福されると言う意味です。

 このアブラハムの子孫がイスラエル(ユダヤ人・聖書ではへブル人と呼ばれています。)人です。 アブラハムは、神によって約束された地、今のパレス チナ(カナン)に移住します。その子孫は、飢餓のためエジプトに下りやがて奴隷としてその地で増え広 がっていきますが、やがてエプトの王から酷い扱いを受け、その苦境から彼らを救い出すように神から 召されたのがモーセです。モーセに率いられた民は、エジプトを脱出し約束の地を目指しそこで神から十戒(神様と共に生きるために必要な10個のルー ル)を与えられます。 <続きは次回へ>

 

 

聖書ってどんな本ですか (1)「本じゃないわ!」

 

  私は、自慢ではありませんが、本を読むのが 凄く、速いです。速いと利点があると思われますが、私は、活字を見るとすぐ読みたくなる活字中毒の様な人間なので常に読む物がないと落ち着かないのです。そのため、子供の時の愛読書は百科辞典でした。そう簡単には読み切れないからです。

 実は、こんな本(活字)大好き人間が唯一、読みたくないと思った本が「聖書」です。勿論、子供の時から教会学校に行っていたので断片的には、聖書のお話は、知ってはいましたが聖書そのものを読む気は、ありませんでした。でも中学生になり聖書をもらったので 読む事にしいつもの様に「前書き」と「後がき」から読もうとしたらそれが、ないのです。 いつも私は、最初にこれらを読んでから真剣に読むか適当に読むか、あるいは、読まないか (読む必要があるか)を決めていました。 しかたがないので取りあえず、真ん中より後ろにある新約聖書と言う区切りの良い所から読む事にして最初のページを開けて読み始めました。思わず「何だ!これカタカナの名前ばかりで誰かの系図らしい事はわかったけどこんな書き方でスタートしたら本としては駄目だわ。何も読者にアピールするものがないしこれで最後まで読んでもらおうと思うのは、努力が足りないんじゃないの・・・」と私は、読むのを辞めました。

 その後、高校生になり、ものみの塔(エホバの 証人)の方との学びを通して聖書には預言がたくさん書かれている事を知りましたが、預言が当ろうが、外れようがどうでもいいし第一、黙示録の預言から14万4千人の一人に入らないと救われないと言われてもそんなに救われる人がいないのかと逆に信憑性を疑いました。 ものみの塔の人から「聖書は神さまが書かれたものなので人間の知恵や努力で意味が判るような物ではありません」と言われ読む意欲が削がれました。

 その後、ものみの塔から離れ、普通の教会に行くようになっても聖書を読もうと言う気にはなりませんで した。何故なら、高校生を指導していた伝道師の先生に「創世記は、おとぎ話だ」と言われ、「聖書は神のことばだから本当の事だと思いますけど」と言ってしまい、私は、いじめを受けてしまったからです。 自慢ではありませんが、私は、信仰を持つまで聖書を読んだ事が一度もなく、洗礼を受ける前にも何 一つ聖書から学びもしていないと言う稀有な人間です。

 洗礼を受けた後、幾らなんでも一度も聖書を読んだ事がないと言うのはまずいと思いましたが、 貴重な時間を割いてまで読むのも嫌だと考え、父と 友人たちが徹マン(寝ないでマージャンをする)している間の隙間に読む事にしました。病弱な母に代わり、お茶を出したり軽食を出したり片付けたりの間に読み続け、朝が来る前に読みきりました。

 読み終わった後、この本の中身を簡単に纏めれば、最初の創世記には、この世界の成り立ちが書かれ、旧約聖書の殆どは、主に神に選ばれたイスラエル民族の歴史が書かれている。そして新約聖書は、 旧約聖書で預言されていた救い主がイエスとして来られた事、そしてそのイエスの弟子たちが世界中にキリストの事を伝え、最後の書である黙示録では、再び、キリストが来られた時、今の世界は滅び、新しい世界がはじまると言う事が書かれているのだと分りました。つまりもっと大雑把に言えばこの世界の最初と最後がこの一冊の本のテーマだと思いました。 そして、この本はただの本ではないなあと感じました。ただ、その時は、この本が自分の人生そのものまで変えてしまう事になるとは、夢にも思いませんでした。