答え:9 今回でこのコーナーは、終了です。

 

 私が、「クリスチャンになって何か得する事 はありますか」と言うテーマで書こうと思った のは、いつも夫が説教で「キリスト教の信仰 は、御利益信仰ではありません。クリスチャン になったからと言って辛い事、苦しい事がなく なる訳ではあません。・・・」と言っている のを聞きながら、『屁理屈を言う人なら「信じ ても何の得をする事もなく、ただ、辛いだけな ら何で信じる必要があるのか?」と言われてし まう』と思ったからです。

 それでこのコーナーを始めたのですが、最近、 ある事が切っ掛けで私の考えは、少し変だと感 じてしまいました。 仕事で出掛け昼食を取ろうとして蕎麦屋に入る 筈が店を間違い、魚屋が経営する和食屋に入り ました。駐車場が車で満杯なので混んでいるのかなとは思いましたが、中に入ってびっくりし ました。何と行列待ちをしていたのです。 外出自粛期間中でもお得感満載の店は、繁盛し ているのだと知りました。つくづく、感染の恐 怖より「欲」に人は、勝てないのだと改めて思 いました。そう思った時、「欲」で人を釣る様 な真似をして信仰の説明をするのは、止めようと思ったのです。

 はっきり言って、信仰を持って損をした、失敗 したと思っていないからこそ、クリスチャンと して生き続けている訳だし「得」があるかないかと言った観点で信仰を持つた人は、いないのではないかと思いました。昔、外国生活が長かった妹の家族が数年振りに帰国し新年に神社に行き、絵馬を買って願い事を書こうとしまし た。

 ところが、絵馬に書くべき言葉が分らず、 サラリーマンなのに商売繁盛と書いて絵馬を貰ってきました。そして妹は「神様に何かを祈願したくてもちゃんとした日本語を知らないと 駄目なんだわ」と言いました。

 多分、何でもいいから「祝された1年を送り たい」と言う願望で多くの人は、神様にお願いに行き、お賽銭を差し出し「ちゃんとお願いしますよ」と念を押すのだと思います。 そう言った意味では、キリスト教の信仰を持つても「得」も「益」も「祝福」も全く、ないかもしれません。

 では、キリスト教の信仰とは、 何なのでしょうか? 私たちを目的を持ってこの世界に生み出して下さった神様を無視し自分勝手に生き続けた自分の罪を認め、その罪の罰を身代わりに引き受けて十字架に架かり死んで3日目によみがえっ たイエス・キリストを信じる事です。このイエス・キリストを信じても商売繁盛、家内安全、 子孫繁栄、病気退散などの保証はどこにも書かれていないので夫が言う様に「御利益」は、ないかもしれません。

 でも、生きている今も死んだ後もすべて神による最善がなされる事を信じる事が出来て、いつでもどこでも神の守りの中で生きれると言う平安があります。私には、これ以上の「得」はないのではないかと思いました。 次回からは、教会で行われている様々な事 (賛美・祈り・説教・・・)を私なりの視点でお伝えしたいと思います。

 

 

 

答え8:予想しない人生が生きれます。

 

  私は、大学生の頃、専攻を聞かれるたび、 「何だと思います」と逆質問をして誤魔化して いました。何故なら、「法学部です」と答えると男性が引いてしまうからです。その逆質問をして男性たちが答えるのは、必ず「幼稚園の先生になるのでしょう」と言うものでした。 多分、外見からそう思われたのでしょうが、子 供に関わる事は、当時の私には、全く、考えられない事でした。私が目指していたのは、決し て裁判に負けない敏腕弁護士になる事でそのために結婚は邪魔だと考えて未婚の母になっても 大丈夫な経済力を持つためお店(ラーメン店) を持とうとしていました。そして、その計画の ために中学から準備をしていたのです。今、考えるとバカの一言に尽きますが当時の私は、頑張れば予定通り行くと信じていました。 しかし、クリスチャンになった時、予想もしな い事が起きてしまいました。

 何と洗礼も受けていないのに教会で日曜日にやっている子供の学校(CS)の先生にさせられてしまったのです。とても小さな教会で牧師 婦人が高齢出産のため20名以上いた子供たちの面倒を見る人がいなくて困っていた時になぜ か、私がその教会に行き、信仰を持ってしまったのです。CS教師が何をするのかも全く、分らないまま、しかも洗礼も受けていないのにその教会に集って1週間後、私は、CS教師にさせられてしまいました。その後も何故か教会を代わるたび、牧師婦人の出産で教会員がひたすら「CS教師を送って下さい」と祈っている。

 教会に行き、初めてその教会に行くと「あな たが祈りの答えです。主が送って下さった方です」と皆に言われ、私は、その教会でCS教師をする事になりました。そんな事が3度も続いた後、私は、神様から「教会の仕事をしなさい と言われ、神学校に進んだのです。 人生に「もし」と言う言葉は、ないとある人が 言っていましたが、私がクリスチャンにならなかったらどんな人生を生きたのかなあと想像します。多分、名誉とお金は、手に入れ、見た目には、成功者になっていたかもしれません。でも、手に入れたのは、それだけだったのでは、 ないかと思います。

 妹の別れた夫は、金もうけに飽きたと言って多摩川の河川敷でホームレスの人たちとの会話を楽しんでいました。勿論、「金儲けに飽きた」 なんって言ってみたい気はしますが、ある牧師 が牧師になった理由を聞かれ「金儲けに飽きたからだ」と言っていたのを聞き、お金持ちにならなければ言えないセリフなのだと思いまし た。地位や名誉を得てもそれだけで幸せにはな れないと言うのは、事実なのだと思います。

 私の話に戻りますが、もし、クリスチャンにならなかったら予定通りの人生を歩めたかもしれませんが、自分の想像や計画を超えた人生を生きる事は決して出来なかったと思います。同じ人生、しかも1度しかない人生なら冒険に満ちた人生の方がずっと楽しいと私は、考えます。そしてその人生を生きた責任を自分ではなく、神様のせいにしてしまえる特権までも付録 で付いてくるのですからクリスチャンになって本当にラッキーだったと今は、思います。

 

 

 

 

答え7本当は弱いのに強くなれます。

 

 私が大学生だった時代は、大酒を飲み酔いつ ぶれるのが格好良いとされた時代でした。急性 アルコール中毒になった友人たちのために何度も救急車を呼んだり皆が吐いた嘔吐物を掃除していた私はいつしか酒豪だと誤解されてしまい ました。そのためクリスチャンになってお酒を 飲まなくなった私に「恰好を付けるな。」と絡 む人が続発し「信仰を持つ人間はみな弱虫だ。 自分に自信がない弱い人間が存在もしない神に頼るんだ」と酒の席で信仰の話をしなければな らなくなりました。それまで私はクリスチャンが特に弱い人だとは思った事はありませんでしたが世間の人は目に見えない「神を信じる人= 弱い人」と決め付けるのだと知りました。しか し当時の私には、「クリスチャンは弱い人ではない」と言い切る自信もありませんでした。 何故なら自分がもし江戸時代に生きていて踏み 絵を踏まなければならない状況になったらやっぱり「踏んじゃうわ」と思っていたので「クリ スチャンは強いです」とは、とても言えなかったのです。

 

 でも、あれから何十年も経った今なら確信を 持って「クリスチャンは弱いです。でも神様が その弱いクリスチャンを強くされるのです」と はっきり言い切る事が出来ます。 そもそも「目に見える物を信じる人が強くて 目に見えない者を信じる人が弱い」と言うのも何の根拠もない話です。極端な事を言えば、弱 いからこそ目に見える物や者に頼るのであって強いからこそ目に見える物や者に頼らなくても生きていけると言う事だって言える筈です。 第一、弱い、強いとは、腕力の事を言っている訳ではなく、心や精神の事だとすると男だって弱い人も女だって強い人もいる事になり、強い、弱いを信仰と並べて考える事に意味は、ないのではないかと思います。

 そんな事を言うと「クリスチャンになって何か得する事がありますか」と言う質問に「強く なれます」と答えているのは、おかしな話ですが聖書に「私が弱い時にこそ私は強い」(Ⅱコ リント12:10)と逆説的な言葉が書かれています。更に「私たちは四方八方から苦しめられますが窮することはありません。途方に暮れますが行き詰ることはありません。」(Ⅱコリ ント4:9)とも書かれているのです。

 

 これを書いたパウロと言う人物は、最初はクリスチャンを迫害し大勢のクリスチャンを牢にぶち込んだ人です。最高の学問を身に着けお金 を払っても手に入れる事が難しいローマ市民権 を生まれながらにして持っていた特権階級の出 身です。しかし世の中的に見ればまさに強い人物ですがその彼は今まで自分が手にしていた価値ある物をキリストを知った事から比べればゴ ミの様な物だと言い切りました。そしてそれま で手にしていた安心材料や安定がすべて失われても自分は何も怖くないと言い切ったのです。 何故なら彼は見た目に強いか弱いかではなく、 「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となれ る」(へブル11:34)と言う聖書の言葉こそ真実だと気付いたからです。これが信仰の醍 醐味だと今の私は確信を持って言えます。

 

 

 

答え6:永遠の命が与えられます。

 

 私が信仰を持ったのは20歳の時です。その時の私にとって一番、キリスト教で嫌な教えが「永遠の命」でした。若い私にとっては「永遠 に生きる」と言うのは「冗談じゃない」と言う 感覚しかありませんでした。私にとっては、こ の世で生きている時が充実していれば、それで良かったのです。

 でも、信仰年数が経るにつれ、この「永遠の命 を得た」と言う事がクリスチャンになって得した事の1つだと感じるようになりました。 古今東西、死後の事を扱わない宗教はありません。古代エジプトの信仰も来世での幸いを考え、遺体をミイラ化したくさんの宝物をピラ ミッド内に収めます。仏教の場合も死んだ後の事を考え、来世でも必要なお金や物を棺に納めます。イスラム過激派も死後の祝福を求め自爆 テロでたくさんの人の命を奪います。世界中の 多くの人達が死後の世界を信じています。

 ただ、キリスト教の「永遠の命が与えられる」と言うのは、来世の事ではなく、この世と 言われている今、この時に関わる事なのです。 勿論、人間にとって「死んだらどうなるの?」 と言う問いに答えられるかどうかは重要です。 クリスチャンは「死んだら大好きな神様がおら れる天国に行き、そこで既に亡くなった方々と 再会出来る」と言う喜びに満ちた未来を信じています。だから誰かの死に際して「また会う日 まで」と一時的な「さよなら」を言います。勿論、人が死んで悲しくない人はいません。 「あなたの疑問に答えます」14 クリスチャンになって何か得する事はありますか 第18巻 第09号 Page 3 たとえ、永遠の命があると知っていても目に見える形では、もう会えない、存在を確かめられ ない寂しさや喪失感は一緒です。でも、「どこに行ったのかわからない」と言う不安感は、ありません。人は誰でも必ず1度は死を迎える訳ですから「永遠の命」を得ているかどうかは、 人間すべてにとって重要な事です。

 でも、私は、あえて言いたいのです。永遠の命 を持っているかどうかは未来に関わる事ではなく、毎日の歩みにすべて関係していると言う事です。クリスチャンの人生の物差しは、この世だけではなく、来世まで続くスパン(期間、長 さ)で測ります。この世と言う物差しだけなら お金や恵まれた家庭生活を得て名誉や良き評判を得たなら「幸福な人生を生きた」と人は言い ます。もし、これらの物が何一つ、得られない、又は、欠けがあるなら「気の毒な人生」と人は評価します。でも聖書は、普通、人が幸せの条件に入れる内容を得ても「空しい」と言います。殆ど何も持っていない私が言ってもやせ 我慢にしか聞こえませんが栄華を極め、世界一の賢者と言われたソロモン王が言った言葉なの で説得力があります。クリスチャンは他人がどう評価しようともまた自分がどう自分を見つめたとしてもあなたの人生は何にも代えられない 「高価なもの」だと神様が評価して下さる人生を生きられるのです。何故なら「永遠の命」を持つ者とされた者だからです。

 この「永遠の命」があるのでこの世と呼ばれ る今の時も神様と共に歩む事が出来てしかもあなたの事をこの世に産み出された神様が全力で サポートしてくれる人生を生きれるのです。

 

答え5:なぜか、積極的思考になっている。

(但し一般のポジティブ思考とは、 違います。)

 

 私は、子供の時からとても消極的思考の持ち主でした。そして今も根本はネガテイブな思考によって物事を考えています。

 別な言い方をすれば、常に最悪を想定してその上で計画を立てます。これは、私の個性なので生涯、変わる事はないと思いますが、私の事を良く知らない多くの人は逆に積極的な行動的な人間だと見るようです。

 でも私が一見、積極的に見える行動を取る背景 が実は、極度の不安と義務感がそうさせている のだと分かっているのは身近にいる夫だけなのかもしれません。

 不安感が強いから自らを落ち着かせるために行 動に移るのが早いだけで、ちゃんとやらないと他人に迷惑が掛かると言う思いから無理をしても行動してしまうのです。つまり、私は夫の様に楽天的に物が考えられないのです。

 でも、個性は変えられなくても信仰を持った事によって物事を決断する時、個性を超えた力 が自分の中で働く事を実感するようになりまし た。勿論、極度の不安症なので決断した後も 「大丈夫かな?出来るかな?」と悩み続けます。

 じゃ、信仰持ったって何も変わらないじゃないかと言われそうですが、実は、大きな違いがあります。「今は分からなくてもこの出来事には神様の考えや思いがある」と信じて生きるか、「すべてを偶然、たまたまとして見なすか」と言う大きな視点の違いがあるのです。

 多くの人は自分に起きた不幸な出来事を「たまたま運が悪かっただけ」、「人との巡り合わせが悪かったから」「やはり自分の過去の失敗が原因か」と考えたりします。 でも、聖書は明確に言っています。 神様にとって無意味、無駄な存在は何1つなく、すべての人間は、この世界に誕生した時から意味を持って生まれ、意味を持って今、生かされていると。

 逆に言うなら神様の計画がすべて遂行された 時に私たちは天に戻されると言えるのです。 この聖書の大枠を知っているかどうかによって人は自分の人生の意味を理解する事が出来ます。だから、私の様なネガティブ思考の持ち主も最終的には、神様が責任を持って導いておられる人生を歩んでいるのだと思うと単なる悲観 論者のままでは、いられなくなっています。

 気が付けば消極的思考の塊だと思っているのは自分だけでいつのまにか積極的思考で生きている人の様に変化しているのです。

 

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 わたしはあなたを強め、あなたを助け、 わたしは義の右の手で、あなたを守る。」

 イザヤ41:10

 

答え4:はい、死への恐れがなくなります。

 

 死ぬのは怖くないと本気で言ってはいますが 実際になったらどうなるのか、私には判りませ ん。何故なら死にそうになった事(車体が半分 以上、崖から落ちた。猛スピードの車が脇から 飛び出してきて轢かれそうになった)はあって も実際、死を長期に渡って意識した事がないか らです。しかも、「死ぬのは怖くないけど痛い 思いをして死にたくはない」と正直な所、思っています。だから、「死への恐れがなくなります」と私が言い切ってしまって良いものなのか と甚だ疑問ではあります。 ただ、私は「死への恐れ」から解放され喜び ながら死と言う厳しい峠を乗り越えていった多くの人たちを知っています。

 身近には主人の父です。末期癌の父を病室で看 病していたある晩、父は、一言、「俺はこの 先、どうなるのだ。どこへ行くのだ」と呟きました。私は、義父の問いに息子が答えた方が良 いと思い、夫に来てもらいました。父は、シベ リア抑留で部隊の中で唯一、生き残った程の強い意志の持ち主です。だから末期癌の痛みの中でも死への恐怖に動じていない様に私には見えていましたが、心の奥底では、不安で一杯だっ たのです。夫が話すイエス・キリストを信じた義父は平安の中で最後の時を過ごし亡くなって いきました。

 私の母も夫の病いが原因で不安症を抱え、更に パーキンソン病も発症し人が変わった様に常に 何かに怯える日々を送っていました。しかし、 イエス・キリストを信じるなら死んだ後に行く 所はイエス様が待つ天国だと知り、「今、やっ と人生最高の喜びを手にした」と言って平安と 喜びと人への感謝に満たされて亡くなっていき ました。 最近もある方に「住まいがこの世から天国に変 わるだけです。先に行くか、少しだけ後に行く かの違いです。天国で皆が来るのを待っていて下さい。すぐに合流しますから・・」と言うと 意識がないと思ったその人が「早く天国に行き たい」と呟かれました。

 通常、私たちの日々の生活で死を意識する事 は少ないと思います。でも、今は「もしかする と明日、コロナに感染し重症化して死を迎える かもしれない・・・」そんな今までには考えも しなかった現実が私たちを襲っています。 死は誰にでも平等です。お金があろうと若さが あろうと最高の医療を受けられたとしても人間 の努力だけでは克服出来ません。

 聖書は言います。「すべてのことには定まっ た時期があり、天の下のすべての営みには時が ある。生まれるのに時があり、死ぬのに時があ る。」(伝道3:1) 「~神がなさることはすべて永遠に変わらな いことを知った。~人が神の御前で恐れるよう になるため、神はそのようにされたのだ。」 (伝道3:14) 神の定めにより人は「死ぬ者」とされた以 上、その死を迎えた時、「自分の行く所を知っ ている幸いは、他の物に変えられない宝だ」と 私は言い切れます。

 

 

答え3: 人生を賢く生き抜く知恵(物差し)が 与えられます。

 

 人間は年を取れば若い時よりは賢くなれると 子供の時、思っていました。しかし、ただ単に 年齢を重ねただけでは、賢くはなれないと今な ら十分に分っています。新聞、テレビを見てい てもどうしてこんな立派な人がこんな愚かな事 をするのか、時には、国のリーダー達がどうし てこの様な決断をするのかと疑問を抱く事が 多々あります。 夕ご飯の中身レベルの話なら何を選んでもた いした違いはありませんが、もし、この決断に よって自分のその後の人生が大きく変わる様な 場合、良さそうな道が1つ以上ある時、そのど ちらを選べばよいのか人は誰でも悩みます。

 私は、クリスチャンになったばかりの時、先輩クリスチャ ンから「クリスチャン生活は冒険の連続だから チャンスのキューピットが来たら即座に前髪を 掴みなさい。キューピットには後ろ髪はないか らすべって掴みそこなう」と何だか分るようで 分からない変な事を言われました。 多分、先輩はチャンスは見逃すなと言いたかっ たのだと思いますが、その時の私は、「クリス チャンになって冒険的な人生なんか生きたくな いし平凡な人生でいいのだけど・・」と正直な 所、思いました。 でも、今までの私の人生を振り返るとクリス チャンになる前に願っていた人生とは全く、 違っていてある意味、想像を超えた冒険の連続 だったような気がします。それでも様々な人生 の選択をする際に私には、人生の道しるべがちゃんとあったので後悔せずにここまで来れた と思っています。

 

 私にとっての道しるべとは聖書の事です。神様の言葉が記された聖書によって何かを判断す るときの枠組みがちゃんと与えられているので 迷う事は少なかったのです。たとえ人がこちら の方が安全だ、良い事が約束されていると言っ ても聖書と言う物差しで見た時、違うと思えた 時は、迷わずに神様が願われる道を選択する事 が出来ました。 又、少々、ずるい言い方ですが自分だけの判 断、決断ならその責任は自分にありますが神の 言葉である聖書に従った時には、神様が保証人 になってくれるので責任は神様が取ってくれる ので安心して示された道を進んできました。。 これは私だけの経験ではありません。聖書の 中に「あなたのみことばは私の足のともしび、 私の道の光です。」(詩篇119篇105節)と 書かれています。この言葉を頼りに生きた人物 がいます。それは羊飼いからイスラエルの王様 にまで登り詰めたダビデ王です。彼の歩みは決 して平坦な物ではなく、王の婿になりながらも 嫉妬心から王に命を狙われ何年もの間、荒野の 中を逃げ回り、ついには国内にいる事が出来ず 敵国にまで落ち延びていきました。彼は、そん な将来が全く見えない最悪の事態の中にあって も神の言葉によって自分の進むべき道が照らし 出され迷う事なく進んでいけると証ししていま す。

 信仰を持って本当に良かった、得したと思え た事は、何ですかと聞かれたら「人生の道しる べ」を得た事だと私は、答えます。

 

 

 

答え2: シャローム(平安)が得られます。

 

 私は大学1年の秋、信仰を持ったのですが喜 びは束の間で翌日からは家族や友人たちに「そ んなバカな真似をやめろ」と言われ、迷い始め ました。 するとサークルの先輩達が「きんとと(私の当時の あだ名)をまともにするための合宿(別名:大 酒を飲む会)を開いてくれました。先輩たちは 次々と「人間が神と言う概念を作り出しただけ でこの世に神など存在しない」と講義を始めま した。 何時間も経った頃、私は突然、先輩たちに向 かって「神様は目に見えないから存在を証明出 来ない。でも私には、神様が共にいて下さると 言う今まで味わった事のない心の平安がある。 私は、クリスチャンとして生きていく」と叫ん でしまいました。

 当然、先輩たちは怒り、その場は大変な事にな りましたがこの事を切っ掛けに私は逆に信仰の 確信を持つ事が出来ました。 だから私にとって信仰を持って一番、良かっ た、得をした事は、この「心の平安を得た」事 です。 聖書ではシャロームと言う言葉を「平安・平 和」と訳しています。

 このシャロームの意味を お話する事によって「心の平安」がどれほど私 たちの人生に必要な事なのかを今回は、お話し たいと思います。

 

 まずシャロームには、平和と言う意味がありま すが、平和の反対は闘いです。聖書では、「神を無視し否定する生き方は神の敵になって 闘っている状態だ」と言っています。だからまず、神と和解しなければシャロームは得られな いのです。 そのために神の御子キリストがこの世界に来ら れ(クリスマス)て和解の道として十字架に架 かって私達の身代わりとして死なれました。 だからキリストを信じるなら神との平和が築か れるのです。 そしてキリストは天に戻られる前にご自分の代 わりにこれからは聖霊が信じる人々の心に住ん で平安(シャローム)を与えると約束されまし た。但しキリストが与えるこの平安はこの世界 が与えるものとは違います。この世界に生きる 限り、艱難が付きまといますが、この平安に よって必ず勝利出来ると約束されたのです。

 つまり、聖書が与える平安は、問題や悩みが ない状態ではありません。言うならば静かな湖 面をのんびりと進む小舟のイメージではなく、 むしろ、嵐の中で木の葉の様に揺れ動かされな がらも動じる事なく前に進む力強い姿です。 信仰をもったら祝福ばかりの楽しい日々が続 くと聖書には書かれていません。信仰を持って も病魔や経済的苦境、家族の問題・・・不安に おののき、ストレスで病む様な状況にも陥りま す。但しその現実だけを見つめているだけなら 沈んでいくだけですが信仰の目を通して見ると そんな嵐の中を自分一人だけでなく船首にキリ ストがおられると言う事が感じられるのです。

 だから安心してその嵐の中を突き進む勇気が出 てくるのです。 それが聖書が言うシャローム(平安)です。

 

 

答え1:はい、あります。

 

 たくさんあるのでしばらくシリーズで得する 事を書いていきたいと思います。

私と夫が婚約をして両家が顔を揃えた時、ど ちらの両親からも同じ言葉がほぼ同時に出まし た。「我が家には一人もクリスチャンがいない のに何故、うちの子がクリスチャンなんかに なったんでしょう・・」と。 まるで私達二人が「悪い物にでも当たった。 はずれくじを引いた」様な言われ方をされまし た。正直な所、親にそんな思いをさせているの かと思うとショックでしたが両親の本音を聞く 事が出来て良かったと思いました。

 幸いにして結婚後、私の親は他人に「娘は牧師 と結婚し日立で教会の仕事をしています」と 言ってくれるようになりましたが夫の母親は ずっと「息子は日立製作所に勤めていて今、日 立に住んでいる」と他人に嘘を言い続けていた 事を10数年も経ってから知りました。 何故、そんなウソをつくのだと夫が尋ねると 「それなりに良い学校を出た息子が牧師になっ たと言えば変人だと誤解され自分が同情される のが嫌だからだ」と言われてしまいました。 正直な所、家族にクリスチャンがいない限り、 「クリスチャンになった」と言って喜ぶ身内は 多分、少ないと思います。 私達の様に親に失望を与えると言う事はなくて も内心、「教会には行っても良いが何もクリス チャンにはならなくてもいいのに・・・」と思 われる人は、かなり多いと思います。これではクリスチャンになって何か得する事が あるのかと思われても当然だと思います。 又、多くの人は、クリスチャンになって洗礼を 受けると言うのは、「何か大変な問題や秘密を 抱えていて心身共に疲れ果てて救いを求めて教 会に行った人だ」と勘違いをされている方も多 いと思います。

 

 でも少なくとも私たち夫婦は違います。特に私 は、何も悩みや問題がなく、寧ろ充実した日々 を過ごしていました。教会に行ったのも別に興 味があったからではなく付き合い上、貰ったち らしを無視する事が出来ないので1回だけ行こ うとしただけです。まさか、そのたった1回が 自分の人生を変えてしまうとは全く、思いませ んでした。 主人の場合は、小5の時、校門の前で宣教師 が配ったちらしをもって教会学校に行き、その まま中学、高校と通い夏のキャンプで信仰を持 ちました。多分、彼にとっては、自然の流れ だったのでしょう。

 この様にクリスチャンになるのはワンパターン ではありません。みんな違います。 でもクリスチャンになって本当に良かったと 思っているのは、共通しています。もっと言う ならクリスチャンになったからこそ手に入れた 物がたくさんあったので他の人にもイエス様の 事を伝えたいと願うのです。 具体的にどんな「とく」があるのかは、次回か らお話ししたいと思います。

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   (ごうづ ひろし)

伝道師  林佑亮

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